ありがとうの価値、拍手の価値、素晴らしいの価値

技術的な話とは関係なさそうだけど、技術的な内容(blogとか)からのネタ元の雑談。


この業界(ソフトウェア開発)では、日々次々と新しいアイデアやライブラリなんかが登場している。技術者の人が書く日記とか blog にも日々それらの新しさについていこう(むしろ、ついていくこと自体が目的のごとく)と必死になって情報収集をしている人の姿をみかける。


誰かが blog や日記に書いたアイデアを紹介するような日記や blog もいくつか見かける。このアイデアは素晴らしい、このライブラリは素晴らしい、とかいう内容を書いてるサイトも多い。このライブラリを今度使おうとかいう内容もある。


あるアイデアやライブラリが素晴らしいかどうかは、もちろん、主観であると思う。ある人は、同じ記述を読んだとしても、それを素晴らしいとは思わないかもしれない。ある人は、素晴らしいと思うかもしれない。これは、思わない人が、価値を正確に判断できなかったので 思えなかった、場合と、逆に、判断できたので 思わなかった、場合と、まだ実際に試していないので素晴らしいかどうか分からなかった、とかのケースがあると思う。


ここで注意が必要なのは、その、ある人のアイデアを紹介している blog や新しいライブラリを紹介している日記を書いている作者が、何を素晴らしいと判断するような人なのか、ということにあると思う。


その作者の人の素晴らしさ判断能力を疑うきっかけのひとつは、僕の場合は、自分がよく知っている内容について、その作者が、(僕の価値基準から見ると)たいして素晴らしくない内容を、素晴らしいというような感じに過大評価していたときだった。


このことから学べることの一つは、物事の評価を素早く正確に行うは、簡単じゃないんではないか、ということ。


僕も、ライブラリの情報を載せるとかの技術的なメモ日記を書いていたことがあったけど、そのときは、単にライブラリの情報を載せるだけだった。理由の一つは、僕自身がそのライブラリとかの本質的な価値を一瞬で見抜けない、という理由もある。もう一つは、本当によい、と思った場合だけ感想を書くとしていたから。


そう、ここで、今回のタイトルの意味が明らかに: ありがとうは、本当に感謝したときに使うようにしよう。拍手は、自分がしたくなったときにしよう。素晴らしいは、本当に素晴らしいと判断できたときにしよう。